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高浜虚子|【我のみの 菊日和とは 夢思はじ】を自分なりに読み解く!

菊 俳句の解説

我のみの 菊日和とは 夢思はじ」は、高浜虚子の俳句です。
この句についてより詳しく調べていきます!

高浜虚子について…
高浜虚子には、河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)という親友がいるんですが、ともに正岡子規の門下生になります。しかし、高浜虚子はこの親友の婚約者と結婚してるんですよね~💧しかも河東碧梧桐の入院中に!いや~…なんか色々…考えちゃいますね😓
その後、俳句は伝統的な型であるべきだと主張する高浜虚子と、自由律俳句の河東碧梧桐と対立するんですけど、なんかマンガかドラマみたい😅

こちらは前回この句について触れた、下五の字余りについての記事です👇

句の意味

我のみの      →自分だけのための
菊日和とは     →菊が咲く穏やかで晴れた天気の日とは
夢思はじ      →夢にも思わない

季語は「菊日和」、季節はです。
そのまま意味を考えると、

この美しい菊が咲く穏やかな晴れの日が、自分だけのためにあるとは夢にも思わない

という感じになるのでしょうか。
実は、この句は文化勲章を受章した時に詠んだと言われています。
「菊日和」は本来は菊が咲く頃の穏やかな晴天の日を指しますが、この場合は文化勲章を受章したことを指すのではないかと。

つまり、
「菊日和(この栄誉ある日)が私一人だけのものになるとは夢にも思わなかった」
てこと?

助っ人(ChatGPT)にも聞いたら、今まで支えてくれた人への感謝の句だと言われたんですが、なんかしっくりこなくて…。
納得いかなかったので、だいぶ日にちがたってもう一度調べてみました。

そしたら、
「この勲章をいただいた穏やかな秋の日だが、私にはもはや夢を見ることもないだろう。」
だって。
…はぁ~!?(Ado風)
ぜんっぜん違うじゃん!最初に言ってたのなによ!ChatGPTの人格変わった!?

他にも調べたら、「明治、大正、昭和と日本文化を支えた大いなる自負の句」、「亡くなった親友の河東碧梧桐の為の句」、「正岡子規への句」とか解釈が色々あって…。
この句についての解釈について悩みまくりました💧

感謝と謙遜の句なのか、驚きと喜びの句なのか、冷静と達観の句なのか解釈によってだいぶ変わりますよね💦

”夢にも思わなかった”って捉えると、「まさか」とか「予想もしてなかった」ってことだと思ってたので、だったら、驚きの句では?と思っていたら、ある言葉を見つけたので引用させて頂きました🙇‍♀️

 学校の国語の授業だと、文学作品を読ませて、「このシーンでの登場人物の心情を答えなさい」といった読解の問題を出します。
 こういった問題では、正解は決められた一つしかありません。
 このため、私たちは文学には正しい解釈の仕方というのがあり、それ以外の解釈をしてはならない、という固定観念を持たされてしまっています。

 しかし、俳句は「どのように解釈してもOK。自由に鑑賞して良い」ものです。

 むしろ、作者の意図したものとは違う解釈をすることで、作品の輝きが増す場合があります。

日本俳句研究会

そうなんだ!✨
じゃ、元の意味とは違っちゃっても怒られないのかな?(だれに)

結局、確信を持てないし、自信も持てないし…またいつか書き換えるかも💦

あえて下五が6音なの?

下五が「夢思はじ」と6音なことについて、何か効果はあるのでしょうか。どうしても「夢思はじ」と言いたかったのなら6音でもしょうがない気がしますが💧
あえて6音である理由としては、

1.感情の強調

「夢にも思わない」という強い否定の表現が印象深くなる説

2.余韻とリズムの変化

句の最後に独特のリズムと余韻を持たせ、読者に深い印象を与える説

こんな感じかなと。

この俳句は下五の字余りによって、高浜虚子の思いや感情が強く伝わり、読者に深い印象を与えることができます。
俳句における字余りは、詩的な効果を高める重要な手法の一つですね。

高浜虚子の知られざる半自叙伝を初文庫化。
対立した親友碧梧桐への思いも描かれています。