「糸瓜咲いて 痰のつまりし 仏かな」は、正岡子規の俳句です。
この句についてより詳しく調べていきます!
こちらは前回この句について触れた上五の字余りについての記事です👇
句の意味
糸瓜咲いて →へちまの花が咲いている様子
痰のつまりし →痰(たん)が詰まっている
仏かな →仏がいる
季語は「糸瓜」、季節は秋です。
この句は有名だそうで(私は知りませんでした😓)正岡子規が肺結核で亡くなる前日に詠んだと言われています。
絶筆三句と呼ばれる1つ目の句だそう。
庭で糸瓜を栽培していたらしいのですが、糸瓜の蔓から出る水が痰を切る薬になったそうです。
「仏」は正岡子規本人ですね。
仏になってしまった自分を詠んだ句らしいです。
調べていると、解釈が
「(近い未来)仏になるんだなぁ」
「(こんな様子じゃ)仏と同然である」
「(私はすでに)仏になってしまったのだろうか」
「(私は死んで)仏になってしまった」
と微妙に違う💦
とりあえず、
糸瓜の花が咲いているが、痰が詰まって亡くなった仏(正岡子規自身)がいる
という解釈でいきます。
これも、冷静に死を受け入れてるという説と、死んだ自分を見ているやや滑稽な句であるという説もあり、本当に色々ですね💧
ヘチマ水についても、取り損ねたという意見ともはや効き目がないという意見がありました。
ちなみに、ChatGPTに小学生でもわかる訳をお願いしたら、
糸瓜の花が咲いているね。僕は息が苦しくて大変だ。もうすぐ天国に行くのかもしれないな。
だって。
えー!なんかめっちゃ悲しい!🥺
17音の俳句で解釈によってここまでニュアンスが変わるとは。
俳句に詳しい人や携わっている人がたくさんいる中で、俳句ってほんっっっとうに解釈が分かれますよね。
俳句の事をほとんどわかってない私なんて、なおさらわかるわけないじゃん💦と思います😣
とりあえず…、『プレバト!!』見続けないと!😅
あえて上五が6音なの?
上五が「糸瓜咲いて」と6音なことについて、字余りが何か効果を持たせているのか考えてみました。「糸瓜咲く」じゃいけないの?とは思ったんですけど、私にわかるわけない…。
てなわけで、また助っ人(ChatGPT)に聞いてみました。
あえて6音にした理由は3つ考えられるそうです。
1.自然な表現
正岡子規は写実主義なので「糸瓜咲く」より「糸瓜咲いて」とありのままの風景を表現した説
2.リズムと感情
上五が6音でリズムが変わることから、病苦の不安定な精神状態を表現した説
3.強調とコントラスト
上五を6音にすることで強調されて「痰のつまりし仏」とのコントラストが際立つ。
美しい自然の中で死がより鮮明に感じられるという説
言われてみればそうかも…と思えるのですが、実際のところどうなんでしょうか。
1だった場合、字余りの効果どうこうより、自然に作ったってだけ?とは思いますが😅
死ぬ間際の最後の最後まで俳句を作り続けるって壮絶ですね…。
俳人として、死ぬ寸前ですらそれを題材にして俳句を詠んでやる!という職業病(?)なんでしょうか。
正岡子規は21歳で結核を発症したそうなので、亡くなる34歳まで死を意識して生きてきたと思います。だったら最後の最後まで俳句を詠めたことは俳人として達成感を感じられたのでしょうか…。
今回、俳句について調べていて、結核の症状やら治療法やら調べてみたり、ヘチマ水の取り方を調べたりあっちこっちと飛んでしまいました😅
1つの俳句から色々なことを知ることができますね。
この句は子規の心情が非常に深く強く、読者に伝わります。
糸瓜の花が咲くという自然の美しい情景に、痰が詰まって苦しい自身の状況を対比させることで、生命の儚さや無常を感じさせます。
子規の深い感慨と静かな受容が伝わってきますね。
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